那覇市の第一牧志公設市場近くに、75年にわたり菓子を作り続ける「末廣製菓」がある。和菓子、洋菓子、琉球菓子など約100種類を手掛ける老舗を支えるのは、2代目の下地玄旬(げんしゅん)さんと弟の玄洋(つねひろ)さん、妹の楚南佐千恵さんの3きょうだいだ。伝統の味を守りながら新たな菓子も生み出し、日常から人生の節目まで、人々の暮らしに寄り添ってきた。
戦後の露店から始まった歴史
創業は1951年。宮古島出身の故・下地玄幸さんが15歳で那覇に渡り、老舗菓子店「大黒屋」で修業した。戦後、弟の故・玄栄さんと露店で菓子を売り始めたのが店の原点だ。「親父が作ったものを親父の弟が平和通りの道端に売りに行っていた。人形焼きのようなお菓子を焼いていたみたい」と玄旬さんは振り返る。
やがて現在の市場付近に木造工場を構え、卸売りを始めた。店舗はなく、知り合いの女性たちに配達を頼み、頭に箱を載せてマチヤグヮー(商店)を回ってもらったという。工場では家族と住み込みの従業員が暮らした。「従業員の多くは両親と同じ宮古島出身だったね」と玄旬さん。従業員以外の宮古島出身者も、生活が軌道に乗るまで住まわせることがあったという。
58年ごろに近くの角地に店舗を開設。69年には工場の立ち退き要請を受け、現在の店舗兼工場などとなる5階建てのビルを新工場として建設した。2019年には店舗をこのビルに移転・統合。車庫だった1階を喫茶スペース付き店舗に改装し、現在の形となった。
3きょうだいで支える家業
幼い頃から家業を手伝ってきた玄旬さんは、高校時代には鏡餅作りも担った。「復帰前でパック餅がない時代だったから、正月用の鏡餅作りは特に忙しかった」。同級生を10人ほど呼び、アルバイトしてもらったことも。「交代で仮眠を取りながら作業した」という。結婚式の引き出物としてカステラも飛ぶように売れた。
家業を継ぐことに迷いはなかった。もともと手先が器用だった玄旬さんは、「親父に『あなたが継ぎなさい』と言われ、この仕事に向いていると思って決断した。高校卒業後は家で修業しながら夜間大学へ通った。大学を出た後、兵庫県の洋菓子店などで5年半修業しながら製菓学校にも通った。
帰沖後、弟の玄洋さんに「一緒に店をやらないか」と声を掛けると、玄洋さんは電気店を辞めて東京の製菓学校へ進み、和菓子職人となった。幼稚園教諭だった妹の佐千恵さんも、接客担当として加わった。
伝統を守り新しい味も
「常に研究、常に前進」と語る玄旬さん。客の要望を受け、新しい菓子も生み出してきた。結納などに使われる「松風(まちかじ)」を小さくした「ちびまちかじ」。古い文献を調べて再現した「汀砂(てぃーさー)あん」。汀砂あんはペリー提督にも出されたとされる菓子で、今ではいずれも看板商品となっている。
黒糖やピパーチ、島とうがらしなど5種類の味がそろう「ちんすこう」や、黒糖ぜんざいとかき氷も人気を集める。一方で、昔ながらの菓子も守り続ける。旧暦12月8日のムーチーの日には「カーサームーチー」の注文が殺到。「サンニン(月桃)の葉を集め、洗うところから始まる。1週間前ぐらいから準備が続いて大忙し」と玄旬さんは笑う。
「お菓子は、生まれてから、亡くなった後までも付き合いがある」と玄旬さん。誕生、成人、結婚、法要と、人生の節目に寄り添ってきた老舗だからこその言葉だ。「常にいいものを作りたい。『おいしかった』と喜ばれるようなお菓子を目指しています」と話す。