1944年の10・10空襲から10日で82年を迎える。空襲を避けようと疎開のため対馬丸に乗り込んだ天妃国民学校の児童の多くは8月、米潜水艦の攻撃で犠牲になった。同校に通っていた金城吉雄さん(91)は、那覇市の自宅から家族で国頭村まで歩いて避難したという。
対馬丸でなく徒歩の避難を選択
金城さんは10・10空襲当時、天妃国民学校に通っていた。同校の児童の多くは対馬丸で疎開する予定だったが、金城さんは家族とともに那覇市の自宅から国頭村まで徒歩で約1カ月かけて避難した。
「那覇は焼け野原に」
金城さんは「那覇は焼け野原になった」と当時の状況を語る。空襲を逃れた家族は、北部への長い避難行を強いられた。
10・10空襲は1944年10月10日、米軍機による那覇市中心部への大規模な空襲で、市街地の大部分が焼失した。金城さんの証言は、沖縄戦前夜の市民の避難の実態を伝えている。