南城市に住む知念春子さん(90)は、9歳の時に沖縄戦を体験しました。佐敷村小谷(現・南城市)の自宅で家族9人で暮らしていましたが、艦砲射撃やマラリア、栄養不足などで全員を失いました。知念さんの体験を、大里中学校3年生徒2人が聞きました。
9人家族の暮らしと戦時中の教育
知念さんは1936年5月、5人きょうだいの長女として生まれました。祖父母と両親、長男、春子さん、弟2人、幼い妹1人の9人で、農業をしながらにぎやかに暮らしていました。
8歳の時に、佐敷国民学校に入学しましたが、勉強をした記憶はほとんどありません。頭巾をかぶって防空壕に入る訓練をしたり、「天皇陛下万歳」をさせられたりした記憶が残っています。「全部が国のためで、一つも自分のためにやることはありませんでした。当時の教育は間違っていたんじゃないかと思います」と振り返ります。
艦砲射撃で家族を失う
1944年7月、家族は熊本に疎開をする準備を進めていました。荷物をまとめて先に県外に送り、家族で船に乗ろうとしていましたが、「敵が見えているから」ということで疎開は取りやめになり、着の身着のまま、帰されてしまいました。
1945年3月になると、米軍による大規模な攻撃が始まりました。家の近くの山には、いつでも逃げ込めるように壕を掘っていました。攻撃が激しくなると壕に入って、親戚と共同生活をしていました。
ある日の夜、親戚みんなで夕食の準備をしていました。おばさんたちが、おつゆをよそってみんなで食べていると突然、艦砲射撃が落ちてきました。5人は即死で、兄と弟は眠るように死んでいました。自分より年が一つ下の親戚の男の子は後頭部が吹き飛ばされて、座ったまま亡くなっていました。親戚のおばさんは片足が吹き飛ばされ、鍋に足が入っていました。「辺りは真っ黒の煙が出ていたのを覚えています」と話します。
知念さんはしばらくの間、その場にぼうぜんと立ち尽くしていました。「この場面ばかりは今でも頭から離れません。動けずに立っていると、慌てて祖母に手を引っ張られ、壕に入れられました」と語ります。
生き残った家族との避難生活と妹の死
そこから歩いて玉城に避難しました。ひたすら歩いたのは覚えていますが、細かいことは覚えていません。その後、玉城で米軍に捕らわれました。そこから再び歩いて、地元の小谷にたどり着きましたが、自宅は焼かれてなくなっていました。
残っている家屋で、複数の家族と共同生活をしましたが、米軍が基地建設を始めたため、小谷には長くはいられませんでした。小谷では5人の米兵が「女を出しなさい」と言って入り込んできたことがありました。母も顔に墨を塗って隠れていました。たまたまハワイ帰りで英語が話せるおじいさんがおり、米兵に対応してなんとか場が収まったことがありました。
一方で、米兵には良い人もいました。ある日、赤ちゃんが松の木にくくりつけられて泣いていました。母親は食糧探しのために離れたようで、その間に赤ちゃんを見つけた米兵が親を探していたことがありました。
小谷から離れた後は、一時的に新里に移動しました。ここでも焼け残った家屋に住んでいました。ある日の夜、まだ1歳にもならない妹が泣いていましたが、母が一向に起きません。どうやら息をしていないようで、医者を呼んできたら、心臓まひと言われました。最後に「あー」と何かしゃべっていましたが、言葉は聞き取れませんでした。そして亡くなってしまいました。
幼い妹は知念さんが子守をしなければなりませんでした。「あまりに泣くので、怒ったこともありましたが、後悔しています。ひもじい思いをして泣いていたと思いますが、自分も精神的にも子どもで、精いっぱいでした」と話します。病院からミルクをもらってきて、あげようとしましたが、分量が分かりません。なんとか飲ませましたが、下痢をさせてしまい、妹は亡くなってしまいました。