スクラップ・ブームで再興した馬天港、料亭や旅館の記憶をたどる
スクラップ・ブームで再興した馬天港の記憶

1950年代の沖縄社会は「スクラップ・ブーム」に翻弄されていた。沖縄戦を経て陸海に残された不発弾を含むスクラップ(屑鉄・非鉄屑)が現金収入の糧として脚光を浴び、老若男女を問わず収集に駆り立てられていた。

労働者が流入し、歓楽街が形成

収集・輸出作業の行われる現場には、大量のスクラップが集積され、作業に従事する多くの労働者が流入した。その典型が、本島東海岸に位置する旧佐敷村津波古の馬天港である。

当時の馬天港周辺には労働者のための宿泊施設や飲食店が建ち並び、歓楽街の様相を呈するにいたった。稼いだ金がすぐさま飲食に投じられることから、料理屋や料亭ばかりが増えたとされる。

戦前から続く港町の歴史

馬天港の歴史は戦前にまでさかのぼる。国頭の安田や安波などから木材・竹材・薪・炭といった林産物が山原船で運ばれるようになり、1900年代初頭から南大東島の開拓とさとうきびの栽培・製糖が始まると、大東航路の起点ともなって東海岸の要衝へと急成長した。

港の発展とともに佐敷街道に沿って新しい集落が形成され、大東諸島へ出稼ぎに出る労働者向けの民宿や料亭なども建ち並び、戦前の段階で歓楽の巷を現出させていた。

戦後の再興と商業地図から見える賑わい

しかし沖縄戦と戦後の米軍による占領にともない、集落は跡形もなく失われた。そこにスクラップ・ブームが起こり、一度は途絶えた賑わいの風景を、軍道として整備された佐敷街道沿いに再興させた。

1950年代半ばには、4軒の料亭と30軒を超える小料理屋がスクラップ労働者を相手に営業していた。位置関係まではわからないものの、作成された1970年の商業地図から、往時の賑わいをある程度までしのぶことができる。

「事業所基本調査」時の津波古には、マチヤグヮー(商店)をはじめとするサービス業を中心に約100軒の事業所が集積していた。最も売り上げが高かったのは湾岸の馬天石油商会で、馬天製糖がそれに続く。黒糖は沖縄経済を支える重要な輸出品目で、馬天製糖の輸出額は95%にのぼった。

飲食店・旅館・銭湯についてみると、食堂5軒、料亭3軒、小料理屋2軒、銭湯2軒、旅館1軒で、1950年代と比べて3分の1に減じている。

興味が持たれるのは、約4割の事業所が1960年以前に創業していた点である。スクラップ・ブーム期に開業した飲食店・旅館・銭湯を列挙すると、旅館「春の家」(1951年)、料亭「みなと」(1952年)・「あけぼの」(1954年)、「東京湯」(1954年)、小料理屋「吉の家」(1955年)となる。これらの店舗は、いずれも佐敷街道に沿って立地していた。

この立地形態のうちに、20世紀初頭にはじまる港まちの記憶をはっきりと読み取ることができる。

出典:ryukyushimpo.jp